「研究と臨床 私の歩み」 前編|寄稿:竹山廣光 先生
2023.05.19在宅医療 , 歴史「栄養ニューズPEN」2021年6月号にご寄稿
【株式会社ジェフコーポレーション「栄養NEWS ONLINE」編集部】
三重北医療センター センター長(ご執筆当時)
竹山廣光
麻酔科研修
1977年、名古屋市立大学医学部を卒業し、麻酔科で研修を始めた。進路を決めるのに影響された映画があるのだが、題名を思い出せない。黒のスーツに身を固めた集団が、心停止した人のかたわらにあるドアを蹴り飛ばして入り、即座に心臓マッサージを施して蘇生させた場面に感動した。医者はこうでなくてはと思いICU管理にあこがれた。麻酔科で1年か2年、全身管理を徹底的に学んでから他の分野に行ってはどうかと説得されたことも大きい。
麻酔科では、大手術の麻酔や急性期の蘇生を含めた手技として、鎖骨下静脈穿刺による中心静脈経路の確保が重要な技術だった。故に麻酔科医はみんな穿刺名人と言われていた。先輩方の代わりだったのだろうが、多くの病院から呼ばれ鎖骨下静脈穿刺の実技指導をした。もちろん1年目の若造だということは黙っていた。鎖骨下静脈穿刺、内頚静脈穿刺は致死的合併症が起こりうるため、十分な知識と経験が必要になる。今は、PICC(Peripherally Inserted Central Venous Catheter)で行えるのなら大血管の穿刺はしないし、穿刺もエコー下で行われるようになって安全性は改善されてきた(図1)。
静脈栄養はICUではよく行われており、多くの症例を経験した。中でも腹壁破裂の手術後、経腸栄養が可能になるまで静脈栄養を行ったベビーの症例は衝撃的だった。外科医は創部や腹壁に縫い付けたビニールシートをうまく操り、徐々に腹部臓器をおなかの中に納めていく治療を、麻酔科医が静脈栄養の管理を行った。この時に、Arvid Wretlind(1919-2002、スウェーデン生まれ。安全な脂肪乳剤 Intralipidの開発者で、1962年には臨床で使用。静脈栄養の父といわれる。)とStanley J. Dudrick(1935-2020、米国生まれ。中心静脈から安全に静脈栄養を行えることを証明、1967年に臨床応用を報告。完全静脈栄養のパイオニアといわれる。)2人の論文を渡され「よく検討するように」と言われた。静脈栄養は画期的な最新の治療法だと思っていたが、彼らは10年も前に完全静脈栄養を目指して研究し、臨床応用していることを知った。
彼らの論文は大いに役に立ち、ICUではDudrickの提唱した、中心静脈にカテーテルを留置し濃度の高い栄養輸液剤を24時間かけて持続投与する完全静脈栄養法を主流とした。その時の処方は、注射用蒸留水、50%ブドウ糖液、12%アミノ酸溶液をほぼ同量ずつ混合することが多かった。アメリカ流の50%ブドウ糖液、8.5%アミノ酸溶液を等分に混合するよりはやや薄めだったが、脂肪乳剤は使わなかった。私はこのベビーがみるみる回復し腹壁が閉じていくのを目の当たりにし、栄養治療は重要だと強く認識した。これをきっかけに静脈栄養の研究会に少しずつ参加するようになった。
麻酔をかけながら手術を見ていると、手術をしたいという思いがどんどん強くなり、予定通り2年弱で麻酔科から外科へ転向した。
外科研修開始
1980年、三重県菰野町にある菰野厚生病院に外科医として赴任した。鈴鹿山脈の麓に位置し、湯の山温泉を有する町で四日市にも近い。外科医は私を含めて3人、もちろん一番下っ端だ。2番目の金森 幹先生はいい人であった。「自分も手術をしたいが症例は均等に分ける」と言われ、全身麻酔の大きな手術症例は均等に分け、腰椎麻酔などの小さめの手術は全例を任せてもらえた。手術解剖であいまいなところは見事に見破られ、指摘され、そして丁寧に教えてくださった。200床弱の小さな病院だったが、卒後3年目の駆け出しにしては多くの症例を経験できたと思う。毎日仕事が楽しく、ほとんど病院にいたせいか給金袋が引出しに貯まっていった。この頃から私は病院内で静脈栄養の勉強会を開き、輸液剤の組成の成り立ちから学び始めた。基本的なことを理解していることが重要だからだ。カテーテル管理には特に力を入れた覚えがある。カテーテルには凝って、通常のキットの他に、末梢静脈から挿入できるソーレンソン、長期静脈栄養のためのヒックマン・ブロビアックカテーテルも常備してもらった(図2.3.4)。
役立った麻酔科研修
麻酔科では、末梢静脈はもちろんのこと、鎖骨下静脈、内頚静脈、大腿静脈穿刺の技術と、静脈栄養を含め全身管理を研修した。麻酔、血管確保が大いに役立った印象的な出来事が2つある。
菰野厚生病院の近くにいなべ市がある。先輩の田中昭先生はいなべ街道筋で田中外科・胃腸科を開業されており、豪快な人だったが、近所の子供たちを集め、プロの棋士を招いて将棋を教えるような優しく親しみのある先生でもあった。
一つは、その田中先生から「交通事故の患者を手術するから急いで来るように」と電話があり、肝破裂による大出血でショック状態の患者さんの麻酔管理をした時のこと。両側の大腿静脈、鎖骨下静脈から血管確保し、看護師さん総出で輸血バックを絞るようにして急速輸血をしたが、このままでは血液が足りない。有線放送で緊急の献血を呼び掛けると、自衛隊から驚くほどの速さで大量の血液が届いた。これには自衛隊の救助の精神と組織力の偉大さを感じた。田中先生と金森先生の執刀で止血でき、患者さんを名古屋市立大学病院に送ることができた。
あの時から38年が経ち、三重県桑名市の寿司屋さんで「田中先生という方は大変な手術をされて若い女性の命を救った大先生だ」という言葉を耳にした。もしかしたらと詳しく聞けば、まさに自分がかかわった出来事、この偶然にもとても驚いた。これを機に田中先生に確認すると、患者さんは結婚されて元気にされている。かかりつけ医として見守っているとのことだった。
もう一つは、田中先生のかわりに日直をしていた時のことだ。あるセメント工場から「大変なことが起きたからすぐ来てほしい」と電話があった。電話だけでは何が起きているのかよくわからず、麻酔科時代に学んだ救急セットを手にして現場に駆け付けた。急階段を進み塔に上がると直径4mぐらいだったと思うが円形のプールがあり、そこは巨大なスクリューでセメントを混ぜている場所だった。そのプールに人が落ち、顔と手以外は埋まっていた。現場の人たちは、落ちた人を助けたくても痛がって動かせず、どうしていいかわからず呆然としていた。私は、落ちた人の不自然な体位とこのまま時間がたてばセメントが固まってしまうという状況に愕然とした。決断して発した言葉は「5分で引きずり出せるか?」。わずかに見えていた手の甲に翼状針で血管確保し、麻酔薬を注入して意識をなくした瞬間に、大急ぎでセメントのプールから救出した。みんな必死だった。塔から下ろすと、右の鎖骨上から静脈確保し急速輸液をしながら病院へ救急搬送、患者さんは骨盤骨折による大量出血、腹部内臓損傷、多発骨折で緊急手術になった。この時の担当医は、中心静脈に血管確保されていたことに驚いていたようだ。
間欠的静脈栄養
胃癌の腹膜再発の患者さんが腸管破裂をきたし緊急手術をした。腸管切除、吻合は無事終了した。閉腹に入ると、腹壁が硬く進展性がないため一部閉じることができず、腸管が見えている状態で手術を終えることになった。その術後を静脈栄養で管理すると、がん性腹膜炎にもかかわらず腹壁欠損部は徐々に縮小し閉鎖することができ、みんなが静脈栄養の威力はすごいと驚いた。この症例で栄養治療の重要性を示すことができたと思った。
その患者さんは大相撲が大好きで、「家でテレビ観戦をしたい」と言った。当時は、在宅での医療行為は制限があり静脈栄養を行うことは法律上難しいと病院から反対されたので、持続点滴を一旦止めて家に帰すことにした。間欠的静脈栄養である。
夕方、ヘパリンロックして点滴を止め、家に帰って大相撲を観る。翌朝、病院に戻り点滴を再開する。点滴を止めても低血糖にならないか、短時間に十分な栄養補給ができるか、再開した時に高血糖にならないかなど疑問点が次々に出て、準備は大変な思いをした。
全ての結果がうまくいくと、この症例をきっかけに入院患者の中から間欠的静脈栄養を望む声が増えてきた。みんな点滴ラインから解放されたい、短時間でも外出したいと思っていたのだろう。看護師の仕事量が増えることになったが協力してくれた。大病院だったら難しかったかもしれない。
この間欠的静脈栄養の症例を地方の研究会で発表した時に、司会をされていた福井四郎先生から「論文にして投稿するように」と薦められた。1981年、間欠的静脈栄養の症例をまとめ、論文にすると、JJPENに掲載された(「Vol3」[No6] 603-605 1981)。初めての論文だった。それが当時の院長、石原隆雄先生の目に留まると、「いい論文だ、何かやってみたいことはないか?」と称賛をいただいた。「ネズミに静脈栄養を行っていろいろ研究してみたい」と答えると、ネズミの飼育セットや高機能代謝ケージ、精密持続注射ポンプ、回転環、チューブ類などすべて要望通り整えてもらうことができた。この病院には閉鎖された結核病棟があり、そこを使っていよいよ研究がスタートした。
ネズミにはできるだけ無拘束で持続点滴を行いたいと思っていたが、ネズミの麻酔が難しく、はじめは扱いが下手で噛まれて大変だった。一方、ネズミの頸静脈をカットダウンし、カテーテルを留置する手術はなかなか楽しいものだった。点滴回路のチューブを噛まれないようにすることのほかに、回転運動による回路のねじれを解消しなくてはならない。市販の回転環は摩擦が大きくスムーズに回らず、満足できるものではなく、自ら設計することから試みていた。
菰野での勤務は2年間、無拘束輸液システムを確立するには至らないうちに転勤が決まり、研究はいったん中断することになった。
在宅静脈栄養
1982年、静岡県にある掛川市立総合病院に赴任した。ここでは、伊藤昭敏先生、恵美奈 実先生、2人の手術名人の指導を受けることができた。恵美奈先生は緻密かつ丁寧な手術で出血はほとんどしない。伊藤先生は天才肌の外科医で電気メスの名人だった。手術症例も多く、掛川の3年間で外科医として急成長できたと思う。
土曜日の午後、当直をしていると腹痛を訴える患者が来院した。経験したことのない腹部所見だった。押さえれば痛がるが腹膜炎のそれとは異なる。柔らかくもないがそんなに硬くもない。不整脈があり、右大腿動脈が触れない。心房細動による血栓、それによる上腸間膜動脈塞栓症、右腸骨動脈塞栓症の疑いのもと緊急手術をした。上腸間膜動脈を剥離、切開、血栓を摘出したが暗黒色に壊死した腸管は戻らず、小腸を大量切除することになった。トライツ靭帯から腸間膜側の測定で30㎝程度を残すのがぎりぎりで、上行結腸に吻合した。大腸はほとんど残っている。大腿動脈の血栓も複数摘出した。術後は激しい下痢と脱水、電解質異常、不整脈対策で難渋した。循環、呼吸、代謝が落ち着くと静脈栄養で何とか管理できるようになった。食事も少しずつ開始し、静脈栄養に依存するカロリー量を減らせたものの離脱は困難で在宅静脈栄養に至った。
この症例は、大学帰局後に研究会や学会などで発表した。後に参加することになったHPN(Home Parenteral Nutrition)研究会に登録され、当時79歳だったこの症例は、日本で最高齢の在宅静脈栄養患者であると高木洋二先生に教えられた。入山圭二先生からは「5年生存したらたいしたものだ。在宅静脈栄養の後押しになる」と励まされたことを覚えている。
大学帰局
1985年、名古屋市立大学第一外科、由良二郎教授の教室に戻った。戻ったら全くの無給医になった。給金も保険証もないという今では考えられない時代だった。当時は医局費、外科研究員費なるものを納めなければならなかった。子供も2人おり暮らしを立てなければならないので、先輩の江崎柳節先生に保険からアルバイトまで大変お世話になった。江崎先生は世界的にその活動が知られた日本を代表するロータリアンだった。私が教授になってからもロータリークラブの国際協力に携わる機会を与えていただいた恩人だが、残念ながら2021年に亡くなられた。
ネズミの無拘束輸液システムの確立を目指した試行錯誤を再開した。当時、助手でもない、医学博士でもない、無給医の私のところに掛川で一緒だった石川雅一先生、その同級生の谷口正哲先生、そして水野裕支先生が一緒に研究したいと集まってきた。助手でもないのに研究グループを率いるなんてことは考えられないことだったので、「やめておけ、やめておけ」とは言ったが、みんな代謝・栄養領域で研究を開始し学位を取った。その後、石川先生が浅野實樹先生を、谷口先生が櫻井敏先生を誘い代謝・栄養グループは徐々に大きくなり活気づいてきた。
ようやく回転環を独自に設計・作製することに成功した。小動物の運動範囲を広げるためにチューブをコイル状にする工夫も追加した(図5右)。無拘束持続注入システムは国内だけでなく、1987年に第11回米国静脈経腸栄養学会(ASPEN)でも発表した。雑誌PEN「Vol.5」[No.3]に紹介されている。学会で発表すると反響は大きく、商品化され、アメリカでも販売された。このシステムでラットにおける静脈栄養と肝機能変化の関係を調べ、これが私の学位論文になった。
当時、静脈栄養の欠点を補うためには、経腸、経口栄養をどの程度使えばいいのか議論されていた。そこで次には、ラットに経腸栄養と静脈栄養を2つの経路が絡まることなく行うことができる回転環を考えついた。これが最初の特許だった。肝要部分の針の作製が複雑で高額になるため実用化はされなかったが、アイデアは秀逸であると思う(図5左)。
日本小児外科学会から帰られた由良教授が「竹山君、大阪大学の岡田 正教授が君のことを褒めていたよ」と上機嫌だった。うれしかった。私は由良教授を猛烈に尊敬していたが、岡田教授も同じぐらい尊敬していた。岡田教授が大阪大学で主催されていた静脈栄養の勉強会には何度も参加させていただいた。また、Dudrick先生の大阪大学での講義を聴く貴重な機会もいただいた。あのDudrick先生に直接会い、話すことができたのには感激した。白いワイシャツの袖をたくし上げて話すはつらつとした姿を今でも思い出す。
岡田教授は1974年から阪大病院の全病棟からの依頼に応じ、栄養回診をチームで行っていた。日本で最初のNSTに違いない。静脈栄養を安全に高いレベルで実践するには何が必要かを学ぶために、私も何度か参加させていただいたが、これは半日近くかかる大仕事だった。この栄養回診を通じて高木洋二先生、金昌雄先生、板倉丈夫先生には、微量元素(銅・亜鉛・セレン・クロミウムなど)欠乏症、栄養評価方法、真菌による眼内炎などの当時のトピックを直接ご指導いただいた。岡田教授は微量元素、栄養アセスメント、HPN、HIT(Home Infusion Therapy)など、人工腸管にかかわる研究会を次々に立ち上げ、その都度声をかけていただいたので、すっかり岡田ファミリーの一員になったように思っていた。
岡田教授は惜しくも2007年に亡くなられた。静脈栄養の普及に尽力し、臨床栄養学の発展に大きく貢献された。私も熱意あるご指導を賜った一人であり、大変感謝している。
1989年、私はようやく助手になり、翌年にUCLAに留学することが決まっていた。機会があれば、留学、帰国から教授就任までと、その後について書いてみたい。
(後編へ続く)