1990年5月、まずは単身、留学先のロサンゼルスに向かった。空港に着き、荷物も多いので急いでも同じだと思い、税関を最後に通過すると、出口にReiko Irie 教授が迎えに来ていた。驚いた。遅いので心配した、どうして最後なのかと諫められながら、とりあえずホテルまで送ってもらい夕食もご馳走になった。車はベンツSL 500 、サラリーマンでは乗れない車だ。アメリカの教授はすごいと思った。UCLA (University of California Los Angeles )に出向くと、日本から留学中の神田進司先生を紹介された。気の毒にも私の世話係を命じられており、大変お世話になった。生活を始めるには、やらなければならないことが山ほどあった。レンタカーを借りる。役所に行って社会保障番号をもらう。銀行口座を開き小切手を作る。車を買う。運転免許を取る。子供たちの学校を決め、アパートを探す……。
そんな時、私のネズミの点滴装置をアメリカで販売している会社社長の両親が、サンアントニオからロスまで挨拶に来てくれた。距離にして2000km以上ある。父親は70歳を超えていたはずだが、驚くほどの超高速スピードで三菱スタリオンを走らせていた。背の高い引き締まった体、パワフルで一緒にいると元気になれる、英語の壁を感じさせない魅力的な人だった。その彼が、あっけなく建築中のアパートを見つけてくれた。新築のアパートは例の規則に当てはまらないので家賃は高かったが、ここを逃すともうないと言われ、決めた。26番ストリート、 ウィルシェア・ブールバード通り北側、ギリギリでフランクリンの学区内だった。近隣にDouglas Park があり、白鳥を見かけて驚いたこともあった。
留学先はUCLA 、腫瘍外科部門(Division of Surgical Oncology )である。主任教授はDonald Morton 教授。彼の下には、アメリカ、カナダ、インド、台湾、韓国、日本などから集まった教授連がいた。その一人、Reiko Irie 教授の下で研究を始めた。Irie教授からは、私の業績を見て栄養に関するものが多かったので栄養とがんについて研究をすること、腫瘍免疫、特にワクチン開発に参加すること、臨床医だからできるだけ症例検討会に出席することを指導された。研究に支障が起きない限り、週に一日、手術見学の許可も得ることができた。様々な症例検討会の日程表が掲示板に張り出されており、比較的オープンで参加しやすかったが、朝7時や7時半開始が多く、病院の朝は早かった。
研究開始
研究を始める前に、もうひと山あった。まずは、UCLA 交通局へ行って駐車場を決め駐車許可証をもらう。これがないと駐車違反で罰金である。給料、税金、健康保険などの事務手続きを済ませて、写真付き名札を発行してもらう。名札なしには建物に入れない。その上、名札は3色あり、色分けで立ち入ることのできるエリアや時間が限定されていた。(写真)そして放射性物質取扱い資格を得るための試験を受ける。合格しないと研究室に入れないのだ。研究室はUCLA 医療センターと医学部の本拠地である健康科学センター(Center for Health Sciences )の古い建物ではなく、隣接した、新しく立派なFactor Building の上層階にあった。(地図2)
In vitro の結果、はっきり効果が出たのでマウス転移実験に移った。まずは、マウスの足底にB16 を移植しリンパ節や肺転移を観察した。転移巣は黒い点として認識でき、良いモデルだった。この実験にはUCLA の学生が助手になってくれた。名前はデービット、長身のハンサムな白人青年、ゴルフ好きで気が合った。彼に親子丼を食べさせたら「こんなにうまいものは食べたことがない」と言った。卵と鶏と醤油が三位一体となった美味しさには共通の価値があった。移植側の下肢を切断するため、剥離や機械結びなどの基本的手術手技を教えたところ、驚くほどうまくなったので、彼には外科医になるようすすめた。
Ronald W. Busuttil 教授率いる移植グループによる肝臓移植手術を何例か見学した。患者がベッドに横たわると、麻酔科医がやって来て悠悠と麻酔をかける。使われる薬剤はほとんどプレフィルド注射器で便利である。消毒係の医師は皮膚を消毒するだけで帰っていく。次に現れた医師たちは開腹し、門脈・静脈バイパスのためのカテーテルを留置する。そこに教授と前立の医師がやって来て移植手術が始まる。2人の役割分担は決まっており坦坦と手術は進む。手順が確立されていてよどみがない。手術が終わると患者移動係の出番だ。体が大きな患者でも、移動係の人もまた大きいのでヒョイと移して退室する。最後に手術室の掃除係がやって来る。すべての掃除道具がディスポだった。あっという間にクリーンにすると、モップの先をコロッと外して袋の中へ、医療廃棄物の袋とともに去っていく。患者の移動、部屋の清掃は独立した職種であり、看護師の仕事ではない。
最初のJohn Wayne Cancer Clinic は彼が入院していたUCLA に開設された。このクリニックでMorton 教授の外来診察に随行する機会があった。窓のない個室が何室かあり、患者はそこで診察用の着衣になって待っている。その個室を教授と主任看護師が診察して回るのだ。患者のプライバシーは完全に保証されている。抜糸をした時には抜糸セットが出てきた。中には消毒、敷布、把持鉗子、ハサミが入っており、どれも立派な作りだったが使い捨てだった。このセットで十分マウスの手術ができた。1991年にクリニックはJohn Wayne Cancer Institute ( JWCI)として、サンタモニカにあるSaint John’s Health Center へ移転している。
Morton 教授もSaint John’s Health Center に移ったので腫瘍外科部門の主任教授はFrederick R. Eilber 教授が跡を継いだ。彼の手術を見た時は驚いた。湾曲したケリー鉗子のような剥離鉗子は先端を患者側に向けて構えるが、彼は違っていた。自分の腹を刺すかのように先端を自分に向けて逆手で持ち、操るのだ。そんな持ち方は考えられなかった。棒高跳びの背面跳びを初めて見た時の驚きと似ている。恩師、由良二郎先生の鉗子さばきも美しかったが、彼の個性的な鉗子さばきもまた見事だった。アメリカの外科医は手術が下手などというのは誤りである。一括りにしてはいけない。 アメリカの医師はジーンズにT シャツ、白衣をはだけ、首に聴診器をぶら下げ、スニーカー履きというイメージを持っていたが、全く間違いだった。症例検討会で見かけた医師たちはみな、パリッとしたY シャツ、ピシッとネクタイを締め、折り目のついたズボンにピカピカの靴を履いていた。ボサボサ頭はいない。日本の医師の方が身だしなみに欠けているように思った。帰国後は、患者に不快な思いをさせないよう、病院内ではY シャツとネクタイは必ず着用している。