「研究と臨床 私の歩み」 後編|寄稿: 竹山 廣光 先生

2023.07.04歴史

「栄養ニューズPEN 」2021年7月号にご寄稿
株式会社ジェフコーポレーション「栄養 NEWS ONLINE 」編集部】

 


三重北医療センター センター長(ご執筆当時)
竹山廣光

 

ロサンゼルスへの引っ越し

1990年5月、まずは単身、留学先のロサンゼルスに向かった。空港に着き、荷物も多いので急いでも同じだと思い、税関を最後に通過すると、出口にReiko Irie 教授が迎えに来ていた。驚いた。遅いので心配した、どうして最後なのかと諫められながら、とりあえずホテルまで送ってもらい夕食もご馳走になった。車はベンツSL 500 、サラリーマンでは乗れない車だ。アメリカの教授はすごいと思った。UCLA (University of California Los Angeles )に出向くと、日本から留学中の神田進司先生を紹介された。気の毒にも私の世話係を命じられており、大変お世話になった。生活を始めるには、やらなければならないことが山ほどあった。レンタカーを借りる。役所に行って社会保障番号をもらう。銀行口座を開き小切手を作る。車を買う。運転免許を取る。子供たちの学校を決め、アパートを探す……。

まずは、足になる車が必要。神田先生の案内で、できるだけ安い会社を探しボロボロの車を借りた。車の購入は、私の先輩にアメリカトヨタの副社長の親戚にあたる先生がおり、電話番号を聞いていた。連絡を取り、指定されたトーランスにある車屋に行くと中古のカムリが待っていた。ドアを閉じるとシートベルトが自動で締まるのが新鮮だった。安全、安心、最も信頼できる車であると説明を受けたが、1万ドルもした。安くないと思ったが、副社長の推薦を尊重した。

ロサンゼルスは、東西に走るウィルシェア・ブールバード通りに沿って、太平洋側からサンタモニカ、ブレントウッド、UCLA のあるウエストウッド、ビバリーヒルズ、そしハリウッドへとつながる。UCLA の北にはベルエア、さらに谷を越えるとシャーマンオークスがある。(地図1)このあたりで、安全な地区にある、公立で評判の良い小学校とアパートを探さなくてはならない。トーランスは、きれいで安全だとすすめられたがUCLA から遠い。ビバリーヒルズにも公立小学校があったが交通量の多い道路に面していたのであきらめた。

サンタモニカにルーズベルトとフランクリンという公立で評判の良い学校があることを突き止め、双方の校長先生と面会した。フランクリンの校長先生は満面の笑みで接してくれ、とても親切だった。通学するにはフランクリンの学区に住む必要があり、本格的にアパート探しを始めた。しかし、当時サンタモニカのアパートは家賃を上げてはいけない規則があり、家賃が安いからかアパートの空きを見つけられずにいた。

そんな時、私のネズミの点滴装置をアメリカで販売している会社社長の両親が、サンアントニオからロスまで挨拶に来てくれた。距離にして2000km以上ある。父親は70歳を超えていたはずだが、驚くほどの超高速スピードで三菱スタリオンを走らせていた。背の高い引き締まった体、パワフルで一緒にいると元気になれる、英語の壁を感じさせない魅力的な人だった。その彼が、あっけなく建築中のアパートを見つけてくれた。新築のアパートは例の規則に当てはまらないので家賃は高かったが、ここを逃すともうないと言われ、決めた。26番ストリート、 ウィルシェア・ブールバード通り北側、ギリギリでフランクリンの学区内だった。近隣にDouglas Park があり、白鳥を見かけて驚いたこともあった。

国際免許の期限が切れるまでにカルフォルニア州の運転免許証を手に入れなければならない。1978年のアメリカ旅行中、お土産代わりにサンマテオ市で運転免許を取得していた。その時には「落ちる方がおかしい」と言われたものだが、「ロスは難しい、一回で受かることはまずない」と聞いていた。交通局で手続きをしていると12年前にサンマテオ市で取得していることが分かり、更新のための10問ぐらいの筆記試験を受けるだけで済んだ。前の運転免許証の写しもなく、本人も忘れていた12年前の記録を探し出す検索能力の高さに驚きながら、運が良かったと感謝した。

 

地図1  Westwood

地図1:  UCLA はWestwood  にある。Wilshire Boulevard の北、Bel-Air の南に位置し、高級住宅街と名門ゴルフコースに囲まれている。
青線:東西に走るウィルシェア・ブールバード(Wilshire Boulevard )。
緑矢印:Douglas Park。

 

UCLA

留学先はUCLA 、腫瘍外科部門(Division of Surgical Oncology )である。主任教授はDonald Morton 教授。彼の下には、アメリカ、カナダ、インド、台湾、韓国、日本などから集まった教授連がいた。その一人、Reiko Irie 教授の下で研究を始めた。Irie教授からは、私の業績を見て栄養に関するものが多かったので栄養とがんについて研究をすること、腫瘍免疫、特にワクチン開発に参加すること、臨床医だからできるだけ症例検討会に出席することを指導された。研究に支障が起きない限り、週に一日、手術見学の許可も得ることができた。様々な症例検討会の日程表が掲示板に張り出されており、比較的オープンで参加しやすかったが、朝7時や7時半開始が多く、病院の朝は早かった。

 

研究開始

研究を始める前に、もうひと山あった。まずは、UCLA 交通局へ行って駐車場を決め駐車許可証をもらう。これがないと駐車違反で罰金である。給料、税金、健康保険などの事務手続きを済ませて、写真付き名札を発行してもらう。名札なしには建物に入れない。その上、名札は3色あり、色分けで立ち入ることのできるエリアや時間が限定されていた。(写真)そして放射性物質取扱い資格を得るための試験を受ける。合格しないと研究室に入れないのだ。研究室はUCLA 医療センターと医学部の本拠地である健康科学センター(Center for Health Sciences )の古い建物ではなく、隣接した、新しく立派なFactor Building の上層階にあった。(地図2

ルイーズM.ダーリン生物医学図書館(Louise M.Darling Biomedical Library )健康科学センターには生物医学図書館があり、図書館員のサービスは素晴らしかった。文献の検索にとても協力的で時間を割いてくれる。親切丁寧なだけでなく、医学の知識も相当なものだった。必要な論文のリストを渡すだけでコピーをして届けてくれる。急ぐ時は自分でコピーをするが、雑誌を発見できないことは皆無だった。学術雑誌は探しやすいように、また、保護するために順列に一定数を束ね、表紙を付けて製本してある。この図書館では検索用に製本された雑誌の表紙は茶色、コピー用は薄緑色だった。コピーに使った雑誌はコピー機の横に置いたままでよく、元の位置に戻す必要はない。そのためにコピー用は2セット用意してあった。行き届いた配慮だ。

写真: UCLA の名札赤色は医師または博士であることを意味している。
施設内の行動制限が少ない。

 

地図2  UCLA Medical Center

地図2  UCLA Medical Center

❶Ronald Reagan UCLA Medical Center : ロナルドレーガンUCLA  医療センターは、21世紀の新しい医療技術を満たすために新築、2008年に開設。私の留学中にはなかった。

❷Center for Health Sciences : 健康科学センターは、巨大で複雑な井桁の建物で、UCLA Medical Center と医学部の本拠地。目的の場所にたどり着くには、階数と廊下名と部屋番号が必須である。1994年のノースリッジ地震により大きく損傷したが修復されている。

❸Factor Building : この建物は、国際的な化粧品会社マックスファクター社の創設者の息子の1人、慈善家ルイス ファクターとその妻ドリスに敬意を表して名付けられた。私がいた研究室とJohn Wayne Cancer Clinic はこのビルの上層階にあった。

❹Louise M. Darling Biomedical Library : 医学部図書館。

 

S-Allyl cysteine と黒色腫

栄養関連の研究では、ニンニクエキスに含まれるS-Allyl cysteine  (SAC)と黒色腫(メラノーマ)への影響を調べることになった。10種類の人メラノーマ細胞と2種類のマウスメラノーマ細胞を用いた。マウスメラノーマ細胞はB16F10 とB16BL6 でマウスのメラニン産生上皮に由来し、皮膚から肺、肝臓、脾臓へ転移研究に使われる代表的な細胞株である。この転移モデルは生物学研究者であるIsaiah J.Fidler 博士によって確立されたもので、細胞を手に入れるために博士に手紙を書くことから始まった。SACの濃度、処理時間など条件を変え、細胞培養、トリチウム化チミジンの取り込みによる細胞増殖アッセイ、メラニン量の変化、表面ガングリオシドの変化、形態学的変化など次々と調べつくさなければならず、あっという間に半年が過ぎた。この結果は、Oncology に掲載された。(Takeyama H, Hoon DSB, Saxton RE, Morton DL, Irie RF. Oncology; 50(1): 63 – 69, 1993.

In vitro の結果、はっきり効果が出たのでマウス転移実験に移った。まずは、マウスの足底にB16 を移植しリンパ節や肺転移を観察した。転移巣は黒い点として認識でき、良いモデルだった。この実験にはUCLA  の学生が助手になってくれた。名前はデービット、長身のハンサムな白人青年、ゴルフ好きで気が合った。彼に親子丼を食べさせたら「こんなにうまいものは食べたことがない」と言った。卵と鶏と醤油が三位一体となった美味しさには共通の価値があった。移植側の下肢を切断するため、剥離や機械結びなどの基本的手術手技を教えたところ、驚くほどうまくなったので、彼には外科医になるようすすめた。

ある日、SAC で処置したマウスを見に行くと、ケージ内にマウスがいない!という事態が起きた。逃げられたかと思ったが、一匹残らず逃げたとは考えにくい。この真相は、動物舎の管理者がケージに付けてあった「SAC 」というラベルを見てsacrifice (犠牲)と勘違いし、親切心でマウスを処理してくれたのだった。この時は呆然としたが、依頼すれば正しい方法で動物を葬ってもらえることが分かった。

 

湾岸戦争

アメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。湾岸戦争が始まったのだ。湿っぽくどんよりした日だった。デービットは、自分も徴兵されれば戦争に行くと言っていた。戦場は遠いのだが、今まさに、空爆が行われていると思うと、戦争を身近に感じた(多国籍軍による空爆から始まり陸上部隊は圧倒的に勝利しクウェートを解放した)。

 

がんワクチン

私の携わったがんワクチン研究は簡単に説明すると、がん細胞に反応する抗体を探すことから始まっている。抗体分子の抗原認識領域が作る抗原性をイディオタイプという。この抗体のイディオタイプに対する抗体、すなわち抗イディオタイプ抗体を作成する。元のがん抗原と同じ抗原性を持つものを探してワクチンに使おうという試みである。大変な労力と時間とお金がかかる仕事だった。

この研究に参加することにより、ウエスタン、ノーザンブロッティング、クロム放出アッセイなどさらに勉強することができた。壊れやすいRNA を扱うノーザンブロッティングは骨が折れるものだったが、1987年にはreverse transcription polymerase chain reaction  (RT- PCR)が確立され、普及し始めていた。この技術は、逆転写酵素(reverse transcriptase )を用いてわずかなRNAをcDNAに変換した後、PCR により検出可能な濃度まで増幅する方法である。目的にもよるが、多くのケースでノーザンブロッティングから解放され、mRNA  の取り扱いは楽になった(図1)。RT-PCR  は開発から30年も経過しており、今ではキット化され簡便になり、どこの研究室でも当たり前に行われている。

2020年、新型コロナウイルスに対し、この検査が迅速に普及しなかったことは理解しがたい。私の携わった研究内容は以下の雑誌に掲載されている。

Kanda S, Takeyama H, Kikumoto Y, Morrison SL, Morton DL, Irie RF. Cell Biophysics; 24: 65-74 1994.

Zeng QS, Takeyama H, Kanda S, Irie RF. Hum Antibodies Hybridomas; 5(1-2): 75-80 1994.

 

図1 ノーザンブロッティングの実験ノート

 

手術見学

研究を開始して半年が過ぎた頃、慣れてもきたし、見通しもついてきたので手術見学を始めた。手術室の温度設定は19℃ 、暑がりの私でも寒く感じるほどだった。患者は保温ベッドに保温カバー、輸液は温められており、体温保持対策は十分だった。手術室には手術着のほかに、手術室専用コートやブルゾンがあり、外回りの看護師はみな着ていた。温められたバスタオルもふんだんに用意されており、寒い時はこれを羽織っていた。

Ronald W. Busuttil  教授率いる移植グループによる肝臓移植手術を何例か見学した。患者がベッドに横たわると、麻酔科医がやって来て悠悠と麻酔をかける。使われる薬剤はほとんどプレフィルド注射器で便利である。消毒係の医師は皮膚を消毒するだけで帰っていく。次に現れた医師たちは開腹し、門脈・静脈バイパスのためのカテーテルを留置する。そこに教授と前立の医師がやって来て移植手術が始まる。2人の役割分担は決まっており坦坦と手術は進む。手順が確立されていてよどみがない。手術が終わると患者移動係の出番だ。体が大きな患者でも、移動係の人もまた大きいのでヒョイと移して退室する。最後に手術室の掃除係がやって来る。すべての掃除道具がディスポだった。あっという間にクリーンにすると、モップの先をコロッと外して袋の中へ、医療廃棄物の袋とともに去っていく。患者の移動、部屋の清掃は独立した職種であり、看護師の仕事ではない。

 

John Wayne

アメリカを代表する偉大な俳優・映画監督、ジョン・ウェイン(1907~1979)は、1964年に肺癌を克服したが15年後、胃癌との闘いの末に亡くなった。彼の遺志を継いで彼の家族は1985年にジョン・ウェインがん財団を設立した。その目的は、研究、教育、意識向上、支援を通じてがん患者の転帰を改善し、命を救う斬新で画期的なプログラムに資金を提供することである。

最初のJohn Wayne Cancer Clinic は彼が入院していたUCLA に開設された。このクリニックでMorton 教授の外来診察に随行する機会があった。窓のない個室が何室かあり、患者はそこで診察用の着衣になって待っている。その個室を教授と主任看護師が診察して回るのだ。患者のプライバシーは完全に保証されている。抜糸をした時には抜糸セットが出てきた。中には消毒、敷布、把持鉗子、ハサミが入っており、どれも立派な作りだったが使い捨てだった。このセットで十分マウスの手術ができた。1991年にクリニックはJohn Wayne Cancer Institute ( JWCI)として、サンタモニカにあるSaint John’s Health Center へ移転している。

Morton 教授もSaint John’s Health Center に移ったので腫瘍外科部門の主任教授はFrederick R. Eilber 教授が跡を継いだ。彼の手術を見た時は驚いた。湾曲したケリー鉗子のような剥離鉗子は先端を患者側に向けて構えるが、彼は違っていた。自分の腹を刺すかのように先端を自分に向けて逆手で持ち、操るのだ。そんな持ち方は考えられなかった。棒高跳びの背面跳びを初めて見た時の驚きと似ている。恩師、由良二郎先生の鉗子さばきも美しかったが、彼の個性的な鉗子さばきもまた見事だった。アメリカの外科医は手術が下手などというのは誤りである。一括りにしてはいけない。
アメリカの医師はジーンズにT シャツ、白衣をはだけ、首に聴診器をぶら下げ、スニーカー履きというイメージを持っていたが、全く間違いだった。症例検討会で見かけた医師たちはみな、パリッとしたY シャツ、ピシッとネクタイを締め、折り目のついたズボンにピカピカの靴を履いていた。ボサボサ頭はいない。日本の医師の方が身だしなみに欠けているように思った。帰国後は、患者に不快な思いをさせないよう、病院内ではY シャツとネクタイは必ず着用している。

UCLA の病院、研究室の印象をひとことで言えば「リッチ」である。壮大にして豪勢、潤沢、この裕福さは日本にはない。

 

ロサンゼルス暴動からジョージ・フロイド暴行死事件へ

1991年、25歳の黒人青年ロドニー・キング(1965-2012)はスピード違反の疑いで停車を求められたが逃走した末に逮捕された。警察官がキングを取り囲み激しい暴行を加える様子を近隣住民がビデオカメラで撮影しており、この映像が全米で報道された。暴行は苛烈をきわめ、キングは重傷を負った。ビデオで確認できた警官4人は暴行の容疑で起訴されたが、1992年4月の評決は無罪だった。この結果に対し、黒人社会を中心に広範囲で激しい抗議活動が起こり、一部が暴徒化した。ロサンゼルス暴動である(被害は死者58人、負傷者約2,000 人を出し、放火件数は3,600 件、崩壊した建物は1,100 件にも達した)。

研究室に放送が入った。「すぐに家に帰りなさい、そして家族を守りなさい」。この時はなぜ暴動が起きてしまうのか疑問をぶつけてみたが、そんなことより早く帰れ、車にガソリンを入れろ、逃げる準備をしておけと怒鳴られるように忠告を受けた。ガソリンスタンドに行ったら長い行列ができていた。サンタモニカにいても焼け焦げたようなにおいを感じた。暴動がだんだん近づいてくる。ただ事ではない。いつでも逃げられるように、妻はストッキングにパスポートと財布を入れ体に巻き付けて寝ていた。恐ろしい出来事だった。この例だけでなく、黒人を狙ったかのような取締りは多く、容疑者を殺害した場合でも、警察官はほとんどの場合刑事処分を受けていない。大きな理由の一つは、人種差別だ。

2020年5月25日、黒人のジョージ・フロイド暴行死事件が起きた。元警察官のデレク・ショーヴィン被告に2021年4月20日、第2級殺人罪をはじめ3つの罪で有罪評決が言い渡された。フロイドは武器を持っておらず、手錠をかけられた状態であり、身体的に誰かに危険を与えることは不可能であり有罪の評決は当然と思うが、アメリカでは驚きをもって伝えられている。ワシントンポストは「白人の警察官が黒人に対して何をしてもいいといったショーヴィン被告の行動は、決して珍しいことではない。今回の評決がとても珍しかった点は、そういった行動に対して、警察官が責任をとらなければいけなくなったことを示唆しているということだ」「ようやく正義がおとずれた」と、バイデン大統領は「フロイドさんは帰ってこないがこの評決は正義に向けた戦いの中で大きな一歩となる可能性がある」と声明を出している。あのロサンゼルス暴動が起きてから約30年経っている。遅すぎるのではないか。

 

おわりに

私は静脈栄養に恋をして、夢中になった。目の前の、驚きや不思議を見逃さず、魅かれるものがあったら、とことん研究する。その努力と経験はきっと未来につながります。何かを発見する過程とその喜びを経験して欲しい。

 

◆前編はこちらから
「 研究と臨床 私の歩み」前編|寄稿:竹山廣光 先生
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