「 少しは貢献できたかも…」|寄稿:井上 善文 先生 Part1
2023.07.28歴史「栄養ニューズPEN 」2021年12月号にご寄稿
【株式会社ジェフコーポレーション「栄養 NEWS ONLINE 」編集部】
私はまだこの領域で現役として活動しているのであるが、「振り返る」原稿である。
まあ、普通は引退している年齢になっているのだから、と思い直し、自分の来し方を振り返り、リスタートする機会とすることにした。
大阪大学第一外科に入局して臨床栄養の領域に進む
田舎から少しずつ都会へ出てきたのであるが、具体的な目標や目的を持って歩んだのではないな、とふと思う。 1 クラス 24 人の小学校から、 4 クラスで 160 人の中学校へ進み(片道 5 km 徒歩通学)、下宿して県立八幡浜高校へ進んだ。予備校は松山市、そこから大阪大学へ進学した。田舎者が少しずつ都会へ出て、最初は戸惑いながらそのうち慣れる、そんな感じであった。
阪大へ入学して、ひょんなことから剣道部に入部。運動部はもちろん、剣道の経験なし、であった。中学、高校はブラスバンドでトランペットを吹いていた。しかし、剣道部に入ったことが第一外科へ進む理由になるのだから面白い。当時の剣道部の部長は第一外科教授、曲直部寿夫 先生で、剣道部は第一外科に進むことに決まっているような雰囲気だった。だから、迷わず第一外科に入った。第一外科に入ったから、 IVH ( intravenoushyperalimentation , TPN )の研究に邁進していた、当時、第一外科講師の岡田正 先生に巡り合って臨床栄養の道に入ったのである。最初から臨床栄養に興味があったのではなく、第一外科に入り、臨床の場で働いているうちに、いつの間にか入ってしまった、入らされた?そんな気がする。(しばらく、 TPN のことを IVH と表現させていただく)
阪大第一外科での研修が始まったのは1980年である。阪大では第一外科のIVH研によるIVH回診が1974年から始まっていた(写真 1 )。 IVH 研に連絡すると、 IVH 研の人たちがやってきて、中心静脈カテーテル( CVC )を挿入して輸液メニューを書いてくれ、そのメニュー通りに処方箋を書いて IVH を実施すればよかった。さらに、週 2 回、回診して、輸液ライン、ドレッシングを交換してくれた。研修医は IVH には触ってはいけない、研修医が触ると感染する、だから IVH 研が管理する、であった。第一外科での研修生活で栄養は大事だと自然に思うようになったが、臨床栄養の領域に進むとは考えていなかった。
国立呉病院外科
1981 年からは広島県の国立呉病院の外科に勤務した。月曜日は呼吸器外科、火曜日と金曜日は消化器外科、水曜日は小児外科、木曜日は心臓外科、土曜日は外来手術、毎日が手術日であった。手術の猛者ばかりの病院で、ひたすら手術をさせてもらった。研修医も術者の位置で手術をさせてもらった。大事なところは前立ちの先輩が操作するのであるが、術者の位置に立たないと見えないものがある、が部長の方針だった。術前術後の管理は主治医である自分の責任。合併症が起こった場合、大事な部分は先輩が操作したのではあっても、術後管理で合併症に対応しなければならない。その際、栄養が大事、これを実感した。阪大第一外科で栄養管理もきっちり習った、という自負はあった。当時、鎖骨下穿刺はまだ普及していなかった。先輩達は鎖骨下穿刺には慣れておらず、上手でもなかった。私は阪大でたくさん見聞きしていたし、ある程度の実践もさせてもらっていたので、中心静脈カテーテルの挿入は国立呉病院で一番うまくなろうと思ってセミナーに参加したり、いろいろ本を読んだりして勉強した。しかも、当時は麻酔科が独立していなかったので外科が他科の麻酔を担当することになっていた。 3 年半の間に小児麻酔から心臓麻酔まで、他科の麻酔も含めて 300 例以上を経験した。麻酔をしている時、採血が必要になると内頸静脈穿刺や鎖骨上穿刺で採血した。静脈穿刺の練習であった。
食道癌の初めての症例。栄養状態が悪かったので、術前に内頸静脈穿刺でカテーテルを挿入して TPN をやってから手術に臨むことにした。しかし、手術前日に 39 ℃ の発熱があり、カテーテル敗血症と診断、手術が延期になった。先輩にむちゃくちゃ叱られた。発想はよかったのだが、管理がまずかったことに気づいた。この経験により、適切な栄養管理を実施するためにはカテーテル管理が重要であることを強く認識することになった。とにかく、いろいろ、合併症も経験した。
昭和 55 年卒の医師から、日本外科学会の外科認定医制度が始まった。認定医試験のために手術件数を症例毎に提出したが、胃切除術、胃全摘術、大腸切除術、直腸切断術、膵頭十二指腸切除術の術者の件数は、申請者の中で私が最も多かった。診療科間の垣根がほとんどない病院で、全科の手術に入らせてもらった。脳外科、整形外科、泌尿器科、耳鼻科、眼科、産婦人科、すべてである。これからは消化器外科の手術の猛者としてやっていこうと思っていた。
大阪大学第一外科・小児外科 IVH 研
3年半の研修を終えると、阪大に帰局するのが第一外科の方針であった。いろいろ悩んでいたところ、山口県宇部市で開催された第 23 回消化器外科学会に参加された岡田正 先生(写真 2 )から連絡があり、話があるから広島まで来なさい、とのこと。広島の料亭でごちそうを食べさせていただきながら、 IVH 研で研究をしないか、と誘われた。 IVH の研究テーマはいくらでもある、すぐに学位ももらえる、いい話であった。消化器外科医としては、栄養管理のエキスパートになるべきだと思っていたし、すぐに学位がもらえるのであれば、学位をもらってから手術に戻ればいい、ということで、この話につられて IVH 研で研究することになったが、そんなに「いい話」ではなかったのである。当時、岡田正 先生は小児外科の教授になっておられた。 IVH 研は第一外科と小児外科が共同して活動していた。私は第一外科の所属で、 IVH 研で研究することになった。問題は、第一外科の消化器外科グループと小児外科が、仲が悪かったこと。大阪からの情報が入らない呉で、そういう阪大内部の状況を知らないまま、第一外科の所属で小児外科の IVH 研で研究をすることを決めてしまった。はっきりいうと、つらい立場であった。第一外科の消化器外科の方の中には私のことを「裏切者」と呼ぶ人もいた。私はそんなことはつゆ知らず、そういう立場になってしまったのである。
いずれにせよ、 1985 年から、私は IVH 研のメンバーとして阪大病院内での栄養管理を担当することになった。根津先生と、阪大病院内を動き回って、カテーテル: CVC を挿入し、栄養管理計画をたて、栄養評価をし、合併症に対応し、輸液ラインやドレッシングを交換する IVH 回診を週 2 回行うという活動に没頭することになった(写真 3 )。「裏切者」と呼ばれたことに反発して、学会発表をするぞ、論文を書くぞ、と意気込んでいた。この頃の活動は反発心によるものであったような気がする。
岡田先生からいただいた研究テーマは「がんと栄養」。ものすごく漠然としたテーマであった。ラットを使った動物実験をやってみたが、指導者もおらず、結局、モノにすることはできず、今でもトラウマとして残っている。その代わり、臨床ではかなりの仕事をした。当時、栄養評価の領域では RTP ( rapid turnover protein )が注目されていた。 IVH 研では IVH 症例全例に、週 1 回、パルチゲンプレートで RTP を測定していた。私の最初の全国学会での発表は、第 27 回消化器外科学会総会のワークショップで「 Rapid turnover protein の栄養評価指標としての意義」であった。最初の英文論文も RTP に関するもので、「 Nutrition 」に「Rapid turnover proteins as index of nutritional status in benign diseases 」が掲載された( 写真4 )。その後、学位をいただいたのはかなり遅くなったが、学位論文も RTP 関連で、「 Rapid turnover proteins as a prognostic indicator in cancer patients. 」であった( 1997 年, 43 歳)。一応、岡田先生からいただいた研究テーマ「がんと栄養」に関連した仕事で学位をもらったことになる。
IVH 研では、管理に関するこまごまとした臨床研究も行い、いろいろ論文を執筆した。ドレッシングを 1000 枚以上使った研究、カテーテル敗血症発生頻度に関する研究、 Broviac catheter や Hickman catheter の導入とその成績、などなどであった。ドレッシングに関する検討では、角を丸くする、カテーテルの固定部分には切れ込みを入れる、などのアイデアを出したが、現在、販売されているドレッシングには、このアイデアが活かされている。
I-system を開発する
毎週 2 回、 IVH 回診で阪大病院内を回診し、輸液ラインおよびドレッシング交換を行った。発熱があるとカテーテル感染症を疑って、抜去したり、再挿入したり、結構、忙しい仕事であった。私が IVH 研で活動するようになったのは 1985 年であるが、岡田先生が院内各科からの依頼をうけて IVH を実施するようになって( 1974 年)、既に 10 年以上が経過していた。第二外科は独自に IVH 管理をするようになっていたし、第一内科はほぼ全例、第二内科も大半は自科で IVH 管理をするようになっていた。主な依頼科は、第一外科と小児外科、第三内科の血液疾患症例、耳鼻科、 ICU などに限られるようになっていた。第三内科も一部の症例は自科で管理するようになっていた。 IVH 研としての活動は栄養管理だけのはずであったが、病棟の看護師さんたちから、さまざまな相談を受けることもあった。自科で管理している IVH 症例についての相談も受けていた。その際、自科で管理している症例はカテーテル敗血症が多い、という愚痴をたくさん聞いていた。しかし、依頼を受けた症例に対応することはできても、依頼を受けていない症例には手を出すことはできなかった。カテーテル敗血症が多い理由について、看護師さんからの情報で、輸液ラインの交換方法に大きな違いがあることがわかった。 IVH 研は、輸液ラインとカテーテルの接続部の消毒を非常に丁寧に行っていたが、自科で管理する場合は輸液ラインとカテーテルの接続を外して、カテーテルの接続部をイソジンで簡単に拭うだけ、とのことであった。ここで、誰がやっても感染しない器具の開発が必要なのではないかと、ふと、思った。
小児科の血液疾患症例の IVH 管理はさらに厳重であった。接続部管理は、 ① 接続をはずす前にヒビテンアルコールで消毒し、 ② 接続部の下に清潔ガーゼを敷き、 ③ ヒビテンアルコールに浸しておいたリスター鉗子を 2 本持って接続をはずし(接続部に触れない)、 ④ 1 本のリスター鉗子でカテーテルをクランプし、 ⑤ 滅菌ピンセットでヒビテンアルコール綿球を持ってカテーテルの接続部を丁寧に消毒し、 ⑥ 新しい輸液ラインを接続し、 ⑦ 接続した部分の表面をもう 1 回ヒビテンアルコールで消毒し、 ⑧ 滅菌ガーゼで接続部をくるむ、という方法であった。血液疾患症例では、休薬期間中にはカテーテルをヘパリンロックして次の投薬に備えるという管理をしていた。休薬期間中は、週 2 回、ヘパリンロックをしていた。ところが、この休薬期間中のヘパリンロックで、ヘパリン加生理食塩液(ヘパリン活水)を注入すると 30 分から 1 時間後に 38 ℃ 以上発熱する症例が何例か出現した。カテーテル敗血症である。これだけ厳重な管理をしているのに、である。いろいろ考えた末、カテーテルをヘパリンロックする際、蓋は、三方活栓用の蓋をヒビテンアルコールに浸して「消毒している、無菌だ」として使っていた。これが問題なのではないかと考え、毎回、未使用品を使うようにした。この時、カテーテルの接続部の重要性に気付いた。ちょうどその頃、メディコン株式会社が米国で使われていたゴム栓付キャップをサンプルとして持ってきた。ヘパリンロック用であった。これを用いて血液疾患症例の休薬期間中のヘパリンロックを行うようにしたところ、カテーテル敗血症になる症例がいなくなった。これが I-system を開発するヒントになった。
カテーテルの接続部に触れないように管理すればいいのだ。カテーテルの接続部(ハブ)に触れないようにゴム栓付キャップをして、ゴム栓に針を刺して輸液ラインを接続するようにすれば、無菌的な接続が可能になると考えたのである。最初の症例は、いつも使っている輸液ラインの先端に翼状針を接続しておいて、ゴム栓に針を刺入して接続した。翼状針は絆創膏で固定した。その頃、雑誌 Surgery に論文「 The clue is the hub 」が発表された。カテーテル敗血症の原因としては、輸液ラインとカテーテル接続部の管理が重要である、という説であった。発想は間違っていないと確信した。この方法で数人を管理して、これはいけると実感した。商品化できるのではないかと考えた。上司の高木洋治先生に相談すると、研究員を派遣してもらっているんだから、ニプロ株式会社にアイデアを渡すべきだ、とのこと。早速、ニプロに相談すると、ほどなくして試作品が作られてきた。当時は、試作品をそのまま使ってもいい時代であった。この試作品を使って、非常にいいという実感が得られ、ニプロも商品化することにしてくれた。このアイデアをニプロに渡したのは 1987 年のことだった。 1988 年にはもう学会発表をしているし、 1989 年には論文として発表している。「フードコネクターシステム」として発売されたのは、 1989 年だった(写真 5 )。
Part 2 へ続く
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